スピリチュアルと信仰心
私の祖母は、仏教系の新興宗教を信心していました。
私の父は、宗教などには全く興味がなく仏壇の前にさえ座った事がありませんでした。
母はというと、その宗教の素晴らしさを並べたて大いに熱弁をふるうのに、自分が信心をする気などサラサラないという人です。
私は、小さい頃から普通のお家の仏教徒の檀家さんとは違う、何か少し世間におおっぴらにはできない新興宗教といものが身近にあり、なおかつ結構アバウトな人々に囲まれていたので良い距離をとりながら、宗教というものを考える機会がありました。
なぜなら、どの宗教でもありがちな「この宗教が一番で、他のものは全く意味がないものです。」とか、「今すぐ改宗さえすれば、しあわせになれる。」とか…
そんなことを聞くたびに小さかった私はいつも、神様はひとつでその人が大好きな姿をとって現れることができるのが神様で、あれがよくてこれがダメなんてちっちゃいことをいうなんてそんなのヘンだよねと思っていました。
だから、宗教なんて争いの元ぐらいに思っていたものです。
それでも、何か困った事があれば仏壇の前にいき、金縛りにあいそうになれば、題目を唱えるなんて事は誰にも強制されなくても自然と身につけた事でした。
なぜか、守られている、守ってくれている存在は見えなくても常に身近にいるというのは、小さいときからの感覚です。
なので、宗教というものへの反発と見えない力のご加護、そして見えない世界を感じる事が普通の子どもより強かったかもしれません。
そんな私が、自分の生きづらさから、なぜ人は生まれ、なんの為に生きるのかと考え始めたとき突然「神だ!神にもどるために生きているんだ!」って答えがふってわいてきたんですね。
自分でもえっ、神?みたいに思いました。今の地球なら、ホント自然に感じられることが、1990年代の地球ってまだまだヘビーな惑星でした。
自分自身がその存在をもてあまし一体私は何者?と日々問いかけてきた答えが「神」。
今の時代なら、自分自身の訳の分からない生きづらさに対して、「それは宇宙由来の魂をもったスターシードです。」とか、「あなたがこの現実を創っている創造主です。」なんて説いてくれる方々もたくさんいますよね。
でもあの頃は、宇宙の根源である唯一の神へと続く道を、少ない情報の中ただ漠然と進んでいたように思います。
でも、ひとたびそれに気づいたとき、あれよあれよという間のシンクロや不思議な出会いによって、神様だらけのインドに行くことになり、そこで仏教国のスリランカ人の夫アセランに出会いました。
インドでの生活は、貧しい人、富める人、子供からお年寄りの人びとに囲まれながら、神様を前に祈る機会がたくさんありました。
日本人である私は、インドの人々がだれでも出来る「祈る」という行為を心の底から行えていない自分に唖然とし、恥ずかしくなったのを覚えています。
インドでは、どんな人でもちゃんと神様とハートで繋がっています。
神様の寺院で祈る人々の眼差しには、神様への愛と信頼で満ちています。本当に美しいです。
日常に溢れた宗教というものと向き合わされ、信仰心の持つキセキや美しさをまのあたりに経験した事によって日本での宗教感がくつがえりました。
そしてまた神様頼みだけの宗教の限界や違和感も経験することになったのです。
自分が創造主であり、現実を創っている。そんな意識へと多くの人々がシフトしている今の地球は、ホント素晴らしいな~と思います。
そして、目に見えない存在達からの無償の愛に見守られて生きてきた事を今の地球では、感覚として感じ取っている人々がホントたくさんいますよね。
そういう存在達に、自然と感謝する毎日を送る人々で溢れる地球にもっともっとシフトしていくんだろうなぁと思います。
今日も最後までお読みいただきありがとうございました。